mikotohodo-三言ほど-

くだらない雑談と小さな情報を日常に

おばあちゃんという存在



そういえば思ったのだ。たいしたプロフィールも無く、能書きばかり書いているこのブログの人ってどんなひとなんだろう。内面的にどんな人なんだろうと、たぶん、誰かは思う。

「おばあちゃん」を語りたい

僕のおばあちゃん。母方のおばあちゃんは、おばあちゃんの「お」を付けなかった時に、一度だけ大激怒した。
子供ながらに「おばあちゃん聞き間違えダヨ、【んばあちゃん】って感じに言う時だってあるじゃない。心の中ではちゃんと言ってたよ」と、心の中で呟いた。

おばあちゃんは現役時代の「アレ」が蘇ったが如く怒る。

そんなおばあちゃんは、いつも優しい。末っ子だった母親には特に甘かったようだ。そんな可愛がっていた末っ子の子、愛娘ならぬ愛孫には、より優しかった。でも、ひょっとしたら僕の方がおばあちゃんが大好きでその愛情にきちんと応えてくれていたのかもしれない。

「あんたは孫だけど、私にとっては自分の子供と同じなんだよ」
高校の帰りに偶然出会ったおばあちゃんに突然言われた。

おばあちゃんは、何かを悟っていたのかもしれない。子供から大人になる過程で起こる周囲との感情のズレにきっと気付いていた。親からは貰わなかった大切な何かをおばあちゃんに貰った。


僕のおばあちゃん。父方のおばあちゃんは、よく、母親の悪口を言っていた。そんなおばあちゃんだけど、僕にはとても優しかった。早くに亡くなってしまったので、あまり想い出らしきものはないのだけど、いつも僕には笑ってくれていた。おばあちゃんは父の姉と同居しており、そこの孫達と仲が良かったので、言うならば、僕はその次だった。特にそれについて不満は無い。ちなみに父方のおばあちゃんの旦那さん、つまり僕の父方のおじいちゃんとは、別居してた。

おじいちゃんについては、また今度話そう。

おばあちゃん。僕のおばあちゃん達は、とても湿気臭かった。なんていうんだろうか…経験豊かという香りってところか。

おばあちゃんに会いに行く。
「おばあちゃ~ん」と、とても慣れた愛情表現で僕は遠慮もせずにおばあちゃんに抱きつくと、こっそりと臭いを嗅ぐ。
とても落ち着く、ワンコもこんな感じで飼い主にこっそり心の奥底で甘えているのだろうか。

時折、亡くなったおばあちゃんを思い出す。その亡くなったおばあちゃんを思い出すクセのせいで、まだ健在のおばあちゃんの事をたまに「亡くなった体」で思いだしてしまうのが悪い癖だ。

おばあちゃんすまんな。


おばあちゃんの記憶があるのはおよそ4歳あたりからだ。それ以前の記憶はたぶん勘違いしているくらいの感覚でしかない。母親のお腹にいた時、父親が僕に向かってギターを弾いた事が度々あった。

父特有の「ヘッヘッ」と鼻笑いしてたのも、お腹の中で聞いている。それを見事に引き継いでしまっている。

そんな余計な記憶よりも、あと一年、あと半年でもおばあちゃんの記憶がほしかったなと、思う事がある。それくらい、ちょっと引いてしまう程、おばあちゃんの事が大好きだ。

人によっては、そうではないパターンがある。それは仕方が無い事だ。人それぞれだという都合の良い言葉を使える所で惜しみなく使うべきだ。

マザコンとか、ファザコンとか、ブラコンとか、シスコンとか、家族を取り巻くこのコンコンとした環境は僕にはない。あるとしたらババコンだ。

まあ、とうぜんだろう。僕の名前を一番優しく言ってくれてたのは、いつだっておばあちゃん達なんだから。

もし、違う世界があるならば、おばあちゃんと同級生、もしくはそれに近い世代で過ごしてみたいもんだ。
そして友人になり、青春を共に過ごし、大人になり、男を選ぶセンスに一言、いや、三言ほど突っ込みたいと思う。